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現代の生き方のヒント
「PLOTTER MAGAZINE」
[Interview No.020]

さまざまな世界において活躍する「PLOTTER」の行動力は創造性に溢れています。

「PLOTTER MAGAZINE」は、彼らの考え方や価値観を通して、過去から今までの歩みをたどり将来をポジティブな方向に導く変革者たちを応援します。

私たちが創るツールと同じように、ここに紹介する「PLOTTER」の物語が、みなさんにとってのクリエイティビティのヒントになれば幸いです。

20人目となるInterview No.020のPLOTTERは、ギター製作家の君島 聡さんです。

 

楽しそうにギターをつくる祖父の姿が、
この世界に入るきっかけとなった。
自分らしいギターを探すため、いまは“迷走”を楽しみたい。

 

「世界の河野」と呼ばれたギター製作家、河野賢。1949年からギター製作をはじめ、1967年にベルギーで行われたリエージュ国際ギター製作コンクールで金賞を受賞するやいなや、その名は世界中に広まることとなった。現在、河野さんが設立した河野ギター製作所の代表は、河野さんの甥である桜井正毅さんが務め、「河野ギター」同様「桜井ギター」としてクラシックギターの最高峰と位置付けられている。

君島聡さんは、河野さんの孫であり、桜井さんの親戚にあたる気鋭のギター製作家。自らのオリジナルブランドを背負ったギターの販売スタートは2021年と業界内では若手ながら、桜井さんのもとで長年修行を積み、研鑽を重ねてきた。君島聡モデルのギターはすでに数年待ちと、多くの演奏家やギター愛好家がその実力を認めている。明確なヴィジョンを設定し、最高のギター製作家に向かって突き進む、君島さんのひたむきで真摯な姿勢は、一点の曇りもなく美しい。君島さんは何を思い、ギター製作と向き合っているのか。

――ギター製作家になることは、幼少期から決められていたのですか?
いえ、そうではないんです。「自分の将来は自分で選んでいい」と言ってもらえていたので。僕にとっての河野賢は、仲のいいおじいちゃん。同じ敷地内に住んでいましたから、一緒に夕食を食べたり、一緒にいたずらをしたり、よく可愛がってもらっていたと思います。

ただ祖父が他界する少し前、「お前はクラシックに興味はないのか?」と聞かれたことがありました。ついにこの時が来たかと思う反面、下手な希望をもたせてはいけないと思い、僕は「ぜんぜん興味ないよ」と答えたんです。ほかにやりたいことがあったわけではありませんが、受験も控えていましたし。それにどこかで怖さを感じていたんです。ギター製作家になることが、何を意味するのかも分かっていました。きっと「河野賢の孫」と言われ続け、「天才」と呼ばれた祖父と比較される。それならばなおさら、下手な覚悟で就くべき仕事ではありません。だからあえてクラシックギターに興味をもたないようにしていた面もありました。

――しかし、君島さんはギター製作家になる道を選ばれた。
大学で就職を意識し始めたとき、祖父が楽しそうにギターをつくっていたことを思い出したんです。それで自分に適性があるかは分からないけれど、一度はギター製作の世界を見てみたいと感じ、河野ギター製作所に入社することにしました。その際、桜井は僕の両親に「うちの工房員の誰よりも厳しくする」と言ったそうです。

――血縁関係であるからこその、厳しいお言葉だったのでしょうね。
桜井自身も血縁関係である河野の工房に入り、色々あったと聞いています。身内だからこそ厳しく、という方針は今考えると間違っていなかったと思います。ただ、元々がめちゃくちゃ厳しい人だったので、そこから更に“誰よりも厳しく”は正直生きた心地がしない日々でした(笑)

僕が飛ぶべきハードルの高さは教えてくれましたが、飛び方は簡単には教えてくれませんからね。「職人は教わるんじゃない、見て盗め。半人前のうちは休日も寝ている暇はないぞ」って。かなり精神を病みましたが、それでも投げ出さずにこれたのは、やはり自分の意思で入社したことが大きかったと思います。祖父の誘いを受けるかたちで入社をしていたら、きっとここまで頑張れませんでした。だけど自分で選んだ道である以上、祖父の名を汚す存在にはなりたくないなと感じて。

――ギター製作家としての適性を、ご自身で感じたきっかけもあったのですか?
20代後半の頃、神がかり的な設計が天から降りてきたことがありました。これを完成させれば世の中がワッと驚くギターになる。そう思ってギターを製作したところ、ひどい駄作が出来上がりまして(笑)。でもそのとき、いろいろな気づきがあったんです。具体的に説明するのは難しいのですが、ギターの音づくりというものが直感的につかめたというか。以降、ギター製作にかける好奇心やアイデアが、次から次へと湧いてくるようになったんです。それはひとつの契機になりましたね。

――そして2021年、38歳のときに正式にギター製作家としてデビューされました。ギター製作家として君島さんが目指す理想のギターとは?
僕は河野賢の孫ではありますが、幼少期からクラシックギターに親しんできたわけではありません。つまりほかのギター製作家よりスタートが遅れている。だから入社したタイミングで、最高のギター製作家になるための人生設計を立てたんです。

20代は職人としての基盤づくり。まずは技術力を高め、センスを磨いていく。30代は実際に自身のモデルを作る事。今まで培ってきた経験、学んだものを駆使して、音やデザインも含め、自分が良いと思うギターを全力で製作してみる。40代はたくさんのコンサートに行き、多くのギタリストの意見を聞き、音楽を奏でる道具としての要素を取り入れる事。ギタリストは各々で表現したい音楽が違うので、意見もさまざまなんですよ。音楽は芸術ですが、音作りは振動学です。芸術を振動学に置き換える変換作業がギター作りの一番難しい所と思っています。したがって、ギタリストのアドバイスである芸術表現を少しでも真の理解に近づける為に、生音のコンサートを聴く事は非常に重要だと考えています。

そして、色々な意見を取り入れながらある種の迷走を楽しみ、50歳くらいまでに「君島聡らしいギター」を見つけられたらいいなと思っています。

――河野ギター製作所では君島聡モデルとして、フラッグシップモデルの「SOL」とエントリーモデルの「Stella」が展開されています。
「SOL」は、音の追求に加え、木材の選定、デザイン、ロゼッタなど、すべてにおいてこだわり、細部まで手間暇をかけたモデルとなっています。目に見えない内部設計なども特殊です。「Stella」は、僕が音に関わる重要な表面板製作を担当し、ボディ・ネック製作の方は河野ギターの従来の製作法で作る事でコストパフォーマンスを上げたモデルです。「弾いていて楽しい」とか、「気持ちがいい」とか、感覚的な部分に魅力を感じてくださる方が多い印象です。

――アトリエを拝見して感じたのですが、ものすごい数の木材を保管されているのですね。
50年以上、ここで眠っている木材もありますよ。ギターづくりは木材選びから始まります。表板はスプルースやレッドシダー、裏板と横板にはローズウッド系が中心。河野ギター製作所では世界中から良質な木材を仕入れ、10~30年の間、乾燥させてから使用しています。乾燥が不十分だと、反ったり割れたりしてしまうので、そこから環境の変化に強い木材だけを選んでいく。長期間のシーズニングを経てギター製作を開始しても、完成までに約1年かけています。日本の四季を体験させることで、温度や湿度の変化に対応できる耐候性の強いギターに仕上がるんです。

――なるほど。木材へのこだわりも、よい音につながっているのですね。さらにクラシックギターはブレーシング(力木)の設計によって、音量、音色、耐久性などが変わるとか。河野賢さんと桜井正毅さんは同じ河野ギター製作所であっても、独自の理論に基づくブレーシングを採用されていらっしゃいます。このような背景を踏まえ、君島さんはどのような力木理論を構築していますか?
ギターの音づくりにはさまざまな方法があるため、力木はひとつのファクターにしか過ぎません。とはいえ力木は劇薬のような側面もあり、少しの違いで大きく音が変わります。河野ギター製作所では河野のギターが1967年のリエージュ国際ギター製作コンクールで金賞を受賞したのち、力木の研究が加速し、独自の音色を追求するようになりました。河野も桜井も、もちろん僕も、目指す音色は異なります。何がいい悪いではなく、ギタリストによって好みも別れますから、僕はまず自分が好きな音を目指してみようと考えました。

最初に製作したのは「モダンタイプ」と呼ぶ力木です。モダンタイプは木の自然な音色や響きを損なわないようにしつつ、桜井の力木理論や自身の経験を取り入れ、伝統的なギターの弱点であった高音の鳴りを改善した力木になります。レスポンスも早いので、テクニカルな速弾きにも音がついてきます。もうひとつが「クラシックタイプ」。こちらはギタリストやギターショップの方と意見交換を重ね、倍音を落としてサスティーンを重視した、よりシンプルな力木の設計としています。その中でも独自のノウハウは入れております。クラシックタイプは、最初から鳴るモダンタイプと違い、弾き込みによって鳴るように育ててゆく楽器として作っております。

――河野さんと桜井さんから、ギター製作家として学ばれたことをお聞かせください。
河野からは好奇心の大切さを学びました。70歳を過ぎても、いろいろなことに興味をもつ祖父でしたから。桜井も「好奇心がない人間は、いいギターはつくれないよ」とよく言っているんです。桜井は現在78歳ですが、未だに新たな発想、チャレンジを続けています。僕のギターづくりにかける情熱も、好奇心によって突き動かされていますので。本当に二人の言う通りだなと感じています。

僕がギター製作家を志した頃、河野はすでに他界してしまっていたので、直接指導を受けたことはありません。だけど一緒に働いていた工房員が、「君のおじいちゃんはこんなことを考えながら、ギターをつくっていたよ」と教えてくれるんです。その中で僕が道しるべにしている言葉は「思いついた事は何でも試す」こと。アイデアが浮かんだら、とにかく形にしてみる。頭の中に留めておくのではなくて、実験と試作を繰り返し、実物で確認するんです。

――ギター製作を行う上で、常に大切にしていることは何ですか?
僕がつくるのは芸術品ではなく「道具」です。その思いはいつも大切にしています。弾き手に寄り添ったギターを、そして弾き手が大切にしてくれるギターをつくっていきたい。僕が死んでも、ギターは残り続けます。だから絶対に手を抜けませんし、進化し続ける姿勢をもっていたいですね。

――いま、挑戦してみたいことはありますか?
奈良県吉野町を訪れて手に入れた、吉野杉を使ったギターをつくることです。クラシックギターの素材としては新しい材料ではありますが、それを覆すポテンシャルを感じるんですよ。奈良県の森林技術センターの調べで、木材の特性がクラシックギターで主に使われているスプルースとレッドシダーの中間くらいに位置している事が分かりました。それで奈良県の吉野に住むギター製作家の丸山利仁さんが最初の吉野杉ギターを作り、それを見せてもらう機会があったのですが、音色が素晴らしく、僕もこの材を使ってみたいと丸山さんに申し出た所、素晴らしい吉野杉材を紹介して頂きました。
この吉野杉はクラシックギターに限らず、アコースティックギター製作家などいろいろなギター製作家と共有したいと考えています。なぜかというと、「日本のギター」として世界に発信していきたいから。クラシックギターの発祥地はスペインで、アコースティックギターの発祥地はアメリカです。元来、他国の楽器ですが、日本人はまじめで器用なので、実はクオリティの高い楽器を作れます。ですが他国の文化の借り物であるがゆえに、本場と比べると格下扱いされがちです。狭い島国ですので、材や技術などはある部分で共有し合い、ある部分では切磋琢磨し合い、お互いに良いものを生み出し、気付いたら日本らしいギターが誕生していたらいいなと思っています。それらが海外で認められ、本場の価値を上回るものを生み出せたらこんなに嬉しい事はありません。

僕は桜井から「河野賢の孫という立場のお前は、クラシックギターという狭い市場でギター製作家の需要を奪う可能性がある。敵も増えるだろうから、覚悟をしとけ」とよく言われていたんですね。でもいざギターをつくり始めると、たくさんの製作家から様々なアドバイスを頂けましたし、とても優しく接してくれました。僕はそれに心から感謝しています。恩を仇で返すことはしたくありません。自分の存在が日本のギター界のためになるなら、少しでも貢献したい。吉野杉のギター製作は、そのひとつのとっかかりになれたらと考えています。

――最後に、「PLOTTER」とはどのような人間像だとお考えでしょう?
強い意志と実行力を持った人間だと思います。僕はギター製作家ですが、創造力によって自分のギターを進化させ続けたいと強く思っています。結果として、PLOTTERと呼べる人達の一員になれたら嬉しいです。

 

【君島 聡・ Luthier】
2007年、祖父河野賢に憧れ河野ギター製作所に入社。桜井正毅の下でギター製作に励む。14年の修行を経て2021年にギター製作家としてスタートを切る。
河野と桜井の研究と経験を受け継ぎつつ、独自のギター製作にも取り組んでいる。

HP
www.kohno-guitar.org